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遺影撮影

昨年の 3/26に終わりの準備をするのは寂しいと書きましたし、その前には人生の幕引きを真剣に考えたことがないとも書きました。

しかし、数年前に遺影の撮影は済ませてあったりするんですよね、これが 

きっかけは叔母でして、
「年寄りになってから妙に若い頃の写真を遺影に使われたらたまらん」
などと言い、5年に一度はスタジオに行って遺影に使える写真を撮影しているのだそうです。

そして、もうひとつのきっかけは義兄の死 

遺影に使いたい笑顔の写真がなく、選ぶのにとても苦労したんですよね。

そして、妻も私も写真が極めて少なく、若かりし頃の写真しか残っていなかったりします。

そんなこんなで遺影に使えるものを撮影しておこうと思い、同じく写真の少ない母も一緒にスタジオで家族写真を撮影してもらいました。

その写真を撮影したのは 2012年のこと 

5年に一度であれば、そろそろ更新しておくべきでしょうか 

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メモリー容量

昨年6月の入院から9月くらいまで自分の記憶があやふやなことは母も自覚しているようです。

当時は脳細胞に不良クラスタが多かったのか、メモリー容量、機能とも極端に低下していたらしく 

同じことを何度も何度も説明し、何度も確認しているのに覚えていなかったり忘れてしまったりということが多々あり、とうとう母の頭の中がお花畑になってしまったのかと愕然としたものです 

病気をしたり環境の激変がストレスとなって記憶力が低下し、認知症やアルツハイマー病を引き起こす場合があると聞いていましたからね。

それでも少しずつ改善は見られましたが、こちらに来てからも伝えたことを覚えられなかったり忘れたりといったことが目立っておりまして。

これはもう、以前の母に戻ることはないのだろうと覚悟しましたよ、ええ 

ところが 10月の中旬から11月頃だったでしょうか、少しずつ頭の中の霧が晴れてきたようで、伝えたこと、何かを置いた場所など忘れずに覚えているようになってきました 

そして今、かなり改善されてメモリー容量も増えてきたようで、以前の母に近づいたように思います。

元々が何度も同じ話をくり返したり物忘れが多かったりと、かなり年季の入った年齢相応のメモリーではあるんですけどね 

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要支援2

昨年末、母は要支援2にダウングレードされたようです。

昨年夏に要介護1に認定されていましたが、それは半年の期限付きだったんですよね。

そろそろ更新の時期になったはずだと妻とも話していたんですけど、家族が余計な気を使ったりしなくても施設側と自治体でテキパキと処理されているようです 

飛行機の座席とかであればエコノミーからビジネスにアップグレードされた方が嬉しいですけど、介護認定だけは要介護1、2、3とアップグレードしてしまうよりダウングレードの方が喜ばしいというもので 

まあ、これで足の痛みまで消えて普通に歩けるようになり、どんどんダウングレードされて健常者になられてしまったら施設にいられなくなるのでそれはそれで困るんですけど 

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初詣→初施設

午前中はボーっとして過ごし、午後からのそのそと初詣に行って来ました 

そのついでに施設に行き、母の顔を見て来まして。

施設内は正月っぽい飾りつけなどもされており、酒も飲めるラウンジで母は甘酒なんぞを飲んでいるところだったので、それなりに正月を楽しんでいるようです 

自室に戻って話を聞くと、27日の夜に心臓の圧迫感を覚えたので迷った末に各部屋に備えられているブザーで職員さんを呼び、舌下薬をもらって何とか落ち着いたとのことでした。

やはり施設で暮らすと安心ですね 

何かあればすぐ駆けつけてくれますし、看護師資格のある職員さんが常駐しているので適切な対応をしてもらえますし。

帰りに職員さんからも医者に診せるほどのことではないと説明がありました。

それはそれで一段落といったところですが、そういえば母と新年のあいさつをするのをすっかり忘れていた・・・ということを帰宅してから思い出したりしている私です 

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今年も終わり

今年は何だか母に振り回された一年でした 

こんなに慌ただしく、こんなに色々と考え、こんなに様々な手続きをしたことはありません。

膨大な量の書類に記入しましたが、人生でこれほど多くの署名をした経験もありませんでした。

覚書もかねてブログの更新をしてきましたけど・・・ 

もうすでに、このブログは闘病記じゃありませんね 

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正月の過ごし方

今日は父の祥月命日だったので、10月に遺骨を納めてきた合祀堂に行って手を合わせ、その足で母の暮らす施設に顔を出してきました。

そこでも9月に納品された小さな仏壇に手を合わせ、命日のお参りは終わりです 

年末年始が近づくにつれ我が家にとって懸案事項となっていたのは正月の過ごし方でして。

同じ町に暮らしていながら何もしないのもどうかと思い、三箇日のうちのいづれかの日には母を我が家に招いて一緒に食事などして正月を祝うべきかと妻と相談していたんですよね。

まあ、長い休みのうちの数時間くらい一緒に過ごすのは良いのですが、それなりのおもてなしというか、何というか必要なこともあろうかと思われるので面倒だという気もしないではなく・・・ 

あれこれ考えていても仕方がないので、我が家で数時間を一緒に過ごすか、それとも私たちが施設に顔を出す程度で良いのか母に決めさせようということになりまして。

今日の訪問時に尋ねてみると、間髪入れずに
「来てくれたらそれでイイ」
というお答え 

妻が気を遣って
「何かお正月らしい料理でも持ってきた方が・・・」
と言いかけると、
「そこまでしなくていいよ、この施設の食事は美味しいし、きっと正月らしいものだって出ると思うから」
と答えます 

「せめて正月くらいは家族水入らずで・・・」
などと、しめっぽいことを言わない相変わらずドライな母です。

まあ、それで大助かりな面もかなりあるので感謝してますけどね。

そんなこんなで、我が家の正月は親子別々に迎えることとなりましたので、三箇日のうち天気の良い日を選び、初詣のついでに母のところに行って新年のあいさつをして来ようと思います 

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久しぶり

施設に行って久々に母の顔を見てきました。

10日は妻だけが施設に行って来てくれましたし、14日に突然現れた時も妻が対処してくれましたから私は遠目にも姿すら見ていない訳でして 

最後に母に会ったのは 2日の誕生日の時なんですよね 

20日間も顔を見なかったのは、母がこの町に来てから初めてのことです。

まあ、私としては会って何の話をする訳でもないので、少しずつ間隔を広げて施設参りは月イチとかにならないものかと密かに目論んだりしているんですけど 

しかしまあ、同じ町に住んでいながら、あまり顔を出さないのも世間的にアレですしね 

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見えない力

次兄を亡くし、初七日、四十九日と過ぎて少しずつ落ち着きを取り戻した頃、実は妻が一年以上も異常出血を放置していることを長兄に話すと、何が何でも病院に連れて行くようにと強く言われました 

それが妻を病院に強制連行することになったきっかけです。

それまでも折にふれて病院に行くよう言っていたのですが、嫌がる妻に無理強いはできないと思い、しつこくは言っていませんでした。

しかし、今回ばかりは長兄からの下命だから逃れられないと、引きずるようにして病院に連れて行ったものです。

結果、それが正解で子宮体がんが見つかることになりました 

もし、あの時、次兄が大病をしていなかったら。

もし、あの時、北海道に帰る決断をしなかったら。

もし、あの時、長兄が強く言わなかったら。

もし、あの時、無理矢理でも病院に連れて行かなかったら。

もし、あの時、病院の婦人科が診療を再開していなかったら。

・・・ 

何か見えない力で妻が生かされているように思えてなりません 

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マスオさんの理由

大阪から北海道に帰ることを決断させてくれたのは次兄。

3人きょうだいの末っ子である妻の兄、次兄が重い病気になり、暮らしていたアメリカから帰国することになったのがきっかけでした。

その時すでに肝臓がんの末期で医者から余命三カ月を宣告されており・・・ 

最後はできるだけ一緒に過ごしたいと言う妻。

大阪での生活に見切りをつけていたこともあり、街を離れて北海道に帰ろうと決断した訳です 

可能であれば同じ家に住み、次兄の面倒をみたいという妻の希望もあったため、妻の父が暮らしていたものの、すでに他界してしまって空き家になっていたこの家に引っ越して来ることになりました。

結局、私達が北海道に到着した 3日後に次兄は亡くなってしまいましたので、一緒に住むことも面倒をみることもできませんでしたけど 

説明がとっても遅くなりましたが、そんなこんなが私の半マスオさん状態の真相だったりします 

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あのまま

あのまま大阪で暮らしていたら・・・ 

今でも時々考えてしまいます。

何かに追われるように気ばかりあせり、現状打破を考える日々。

そんな生活を続けていたら妻を病院に連れて行くことはなかったことでしょう。

住んでいた地域に婦人科がなかったので面倒なこともあり、妻も病院に行く決断を下すことはなかったものと思われます。

そうなれば妻の体内でがん細胞は増殖し続け・・・ 

つまり、あのまま大阪での生活を続けていたら妻を死なせていたに違いなく・・・ 

北海道に帰ってくるきっかけとなった次兄、妻を無理矢理でも病院に連れて行くようにと強く言ってくれた長兄には本当に感謝しなければなりませんね。

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